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ぼやき: 島尻の「歯舞」読めずの深淵

政府答弁書までウソをつくようでは安倍首相もおしまいだ
2016年2月20日  天木 直人

 島尻安伊子沖縄・北方領土担当大臣が北方4島の一つである歯舞諸島を読めなかったことは、おもしろおかしく報道されて、もはや日本人で知らない者はいない。

 テレビで流されるあの時の映像を見れば、島尻大臣が読めなかった事は明らかだ。

どう読むのか教えてくれと側近にささやいてる声まで流されていた。

それにもかかわらず、安倍内閣は19日の閣議で「読み方を知らないと言う事実はない」とする政府答弁書を決定したという。

いくら安倍首相が嘘つきだと言ってもこの嘘はない。

嘘をつくことはその場限りで終わってしまう。

国会答弁の修正はできる。

しかし閣議決定を経た上の政府答弁書は公文書として永久に残る。

政府答弁書を修正するなどということはあり得ない。

安倍首相の嘘もここに極まれりだ。あまりにも愚かだ。

読めませんでした、そんな政治家を担当に任命した私の責任です、と正直に認めれば国民は許したろうに。

正直になれない安倍首相はこれで終わりである(了)

島尻 - 歯舞

旧唐書:『日本国は、倭国の別種なり。その国、日のヘリに在るが故に、日本を以って名と為す。あるいは曰く、倭国自らその名の雅びならざるをにくみ、改めて日本と為す、と。あるいは云う、日本はもと小国にして倭国の地をあわせたり、と。その人にして朝に入る者、多くは自ら大なるをほこり、実を以って対せず、故に中国はこれを疑へり。また云う、その国界は東西南北各数千里、西界と南界は大海にいたり、東界と北界には大山ありて限りとなす。山外はすなわち毛人の国なり。』                        読み解けば、「日本」は倭国とは政権が別の国家で、倭国よりは日に近いすなわち東に存在し、しかも倭国がなんらかの理由で衰えたのを合併し、列島の統一王権を形成した国である、と言うことができる。 その国とは、紛れもなく「大和王権」であろう。
倭国が日本に併合され統一国家が生まれたのは、上の<倭国>記事の最後の年号・貞観22年すなわち648年と<日本>記事最初の年号・長安3年すなわち703年の間のことである。648年から703年の間に生起した九州倭国を揺るがせた大事件と言えば、663年の「白村江の戦い」の他にはない。したがって前の段落で「なんらかの理由で衰えた」原因こそがこの「白村江の戦い」でなければなるまい。戦いは海戦で、倭国の水軍400艘が海の藻屑になったと言われる消耗戦であった。これにより九州倭国は立ち直れないほどの痛手をこうむったのである。
そのために対外的には倭国として権力を振るってきた九州国家は勢いを失い、変わって畿内大和王権が「日本」という新国家体制(唐の制度にならった律令体制)を建設し、列島を統一したのであった。おおむね天武王朝から文武王朝の時代にかけてそれは完成したと見てよい。やがて、列島支配の大和覇権は、8世紀(700年代)末の蝦夷地への強奪戦(アテルイ vs 坂上田村麻呂軍)へと至る。島尻が蝦夷地「歯舞」を読めないことの深層は、文字通り「深い」。

アカデミズムがある種の「徒弟制」で成り立っており「ムラ」で論じた学績を教授になった途端「ゴメン、今までのは嘘です。実は…」とは絶対ならず、原子力ムラのように「古代史ムラ」なんです。「記紀」を相対化する道、列島を東アジア古代史・列島内覇権史の中へ解き放つ道は遠い。

 

つぶやき: 放送法に電波停止条項ありや?

放送法は、権力に電波停止の権能を与えてはいない。
例えば、『復讐するは吾に在り』というのは、「人間には復讐の権能を与えてはいない。それは吾の専権事項だ」とする「神」の言葉だ。
日本国憲法第97条:『この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。』
ここに言う「信託されたものである」の主体たる「信託主」は書かれていない。それは、憲法を含む法を超えて在るはずの、人類の永い歴史と智恵に育まれた、規範や人類倫理など天賦の価値云わば「神」的普遍性から「信託」されているのだ、と言っている。
放送法についていえば、第4条を根拠に、権力が報道機関に介入するなど、放送法の理念と全く反対のことなのだ。放送法における「放送の不偏不党」「政治的公平」とは、「放送による表現の自由を確保する」ためにあるのだ。

放送法における、「政治的公平」とは何か。同法4条には、次のように書かれている。

第4条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。

一 公安及び善良な風俗を害しないこと。

二 政治的に公平であること。

三 報道は事実をまげないですること。

四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること

 

総務省は12日、衆院予算委員会理事懇談会で、放送法の「政治的公平性」の解釈に関する政府統一見解を示した。 
見解は「『番組全体』は、国論を二分する政治課題で一方の見解だけを支持する内容を相当の時間、繰り返し放送する−−を挙げた。
市民団体「放送を語る会」と日本ジャーナリスト会議(JCJ)は12日、高市氏の発言に「憲法が保障する言論・表現の自由に対する許し難い攻撃だ」と抗議し、辞任を求める声明を発表した。【毎日新聞 2月12日20時】

ならば、国論が定着している事柄、(例えば「一内閣が憲法解釈を閣議決定だけで変更することは。立憲主義に反している」など)とは違う見解や行動を政権が強行すれば、それは国論の二分であり両論併記すべきだ、となりいわば政権のやり放題ではないか! 国論の二分を自作自演しているのは誰だ?

つぶやき: 『愚か者』(1987年)誕生譚。

昨年末、NHK「SONGS」伊集院静&近藤真彦対談より。
近藤のファンではないし伊集院の妙に「男の・大人の」美学云々連呼の言辞も、ワシが女々しい(これ差別的使用ではなく、ある親愛に根差した言葉)からか好きではない。
が、ここで伊集院が言った『背伸びして遠くを視なよ』には、最早背伸びするにも爪先立が3秒と続かないかもしれない身にもズシンと来た。かつてワシを含む周りがそうやって「遠くを」視ようとした日々と稚拙の先にあったはずの意味と価値を、例えば今、安倍政権を終わらせよう・安保法制を葬ろうと語り行動する若者と共有したい。

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SONGS近藤正彦~伊集院静1-thumb-400x224-96754[1]

(2015年12月11日 [NHK ONLINE] SONGS 367回 より)
近藤は80年のデビュー曲「スニーカーぶる~す」のカップリング曲「ホンモク・ラット」で初めて伊集院氏の歌詞に出会った。4枚目のシングル「ギンギラギンにさりげなく」で硬派な魅力でレコード大賞最優秀新人賞を獲得。この年の新人賞を総なめにすると、紅白歌合戦にも初出場した。近藤は「ギンギラギンを歌ったころから小学生、中学生、おじいさん、おばあさんから“マッチ”と呼ばれるようになった」と、この頃から国民的アイドルに成長したことを話した。
しかし、17歳で頂点に立った近藤は、20歳でアイドルとしてやっていけるのかと、さらに同時期に母親が交通事故にあい芸能人生に悩んでいた。そんな時に誕生したのが87年に発表した『愚か者』だったと話すと、「大人の酔っ払いの歌を歌わせてくれたのが嬉しかった」と当時の想いを打ち明けた。「(当時)22の僕には早いけど、『背伸びして遠くを視なよ』という(伊集院氏の)メッセージだったのですね」と納得していた。

つぶやき: もうひとつの 『あなたの行く朝』

「あなたの行く朝」

 

いつの間にか 夜が明ける 遠くの空に

窓を開けて朝の息吹を この胸に抱きしめる

あなたの行く朝の この風の冷たさ

私は忘れない いつまでも

もしもあなたが 見知らぬ国で 生きていくなら

その街の 風のにおいを 私に伝えておくれ

あなたのまなざしの 張りつめた想いを

私は忘れない いつまでも

(語り)

『海の色がかわり 肌の色が変わっても

生きていく人の姿に変わりはないと

あなたは言ったけれど

あの晩 好きな歌を次から次へと歌いながら

あなたが泣いていたのを 私は知っている

生まれた街を愛し、育った家を愛し

ちっぽけな酒場やほこりにまみれた部屋を

愛し 兄弟たちを愛したあなたを

私は知っている』

 

いつかあなたが 見知らぬ国を 愛しはじめて

この街の 風のにおいを 忘れていく日が来ても

あなたの行く朝の 別れのあたたかさ

私は忘れない いつまでも

 

登紀子さん自身が『歌い綴る自分史』(http://www.tokiko.com/jibunsi/jibunsi24.htm)で語っているように、後の夫:藤本敏夫氏がいよいよ収監される日が迫った1972年4月21日、「日比谷公園のパーラーで友人たちが集まり、ビールでにぎやかに乾杯。大勢の人の中ではいつだってそうだったように、私の方には一切の関心を見せない彼の姿を、勝手に自分の心の中で見送り、私は一人そこから飛行場にむかった。」

「ずっと後になって作詞作曲したのだけれど、『あなたの行く朝』はこの時の別れの心の中の風景だ。」そうだ。

それが事実だろう、ご本人が語っているのだから…。

だがぼくには、どこかで聞いたこの歌を巡る物語があって、誤情報だと言われてもそのほうが心に刻まれて来た。あなたの行く朝

この歌詞は、1971年2月遥か中東へ発つ親友女性Sさんに贈る、

翌1972年1月極寒の山岳地帯で命を終えることになる女性Tさんからの惜別の歌だと聞いていた。

「あなたのまなざしの 張りつめた想いを 私は忘れない いつまでも」という正に「張りつめた」歌詞が、

聞いて来た誤情報と結びつき像を成し、永くぼくにとって救いでもあった。

Sさんの親友Tさん、この歌詞…。ぼくはそれを、無惨な死の向こうに消え入るように儚く揺れる一条の弱光として無理設定し、見つめて来た。

彼女の瑞々しくも気高い精神性の証として・・・、原初の精神綱領として・・・。

 

 

つぶやき: 2015年 訃報。   合掌!

2015年 訃報

1月10日フランチェスコ・ロージ(92) 3月19日桂米朝(89) 4月15日愛川欽也(80) 5月15日車谷長吉(69)

6月22日ラウラ・アントネッリ(73) 7月10日オマー・シャリフ(83) 7月20日鶴見俊輔(93) 7月31日加藤武(86)

9月5日原節子(95) 9月24日福島菊次郎(94) 9月29日山内久(90) 10月24日我が実母(95) 10月31日佐木隆三(78)

11月30日岡本まさみ(73) 11月30日水木しげる(93) 12月6日平良とみ(87) 12月9日野坂昭如(85)

2015年 訃報

 

駄エッセイ: 「蛍の光」と沖縄

「蛍の光」と沖縄

先日、友人が「蛍の光の歌詞、最近3番4番を知ったんやけど、ありゃヒドイね。作詞時(明治10年代初頭)の国策のままで、領土拡張・富国強兵・国威高揚・排外主義・覇者の施し・銃後の少国民の覚悟を謳っているんやで。」「歌詞を変えろ」と怒っていた。
知ってる?と訊かれ頷いたが、記憶は曖昧。ちょっと、確認してみた。


蛍の光 窓の雪
書読む月日 重ねつつ
いつしか年も すぎの戸を(杉と過ぎるを掛けている?)
開けてぞ今朝は 別れゆく

止まるも行くも 限りとて
互みに思ふ 千万の(かたみに{互いに}おもふ、ちよろずの)
心の端を 一言に(想いの端々を一言にまとめ)
幸くと許り 歌うなり(さきくとばかり、「無事で」と歌うなり)

筑紫の極み 陸の奥(建国神話さながらに、九州の果ても東北の奥地も
海山遠く 隔つとも(帝国の津々浦々は、隔たった地であっても)
その真心は 隔て無く(拡張して得た地も含め大御心に隔てなく)
一つに尽くせ 国の為(汝ら一つになって国に尽くせ)

千島の奥も 沖縄も(異族の地・地と海の果てたる千島列島も琉球も)
八洲の内の 護りなり(皇国大八洲の内、防衛壁なんだ)
至らん国に 勲しく(いさおしく)(日本の支配が及ばない地域には勇敢に)
努めよ我が兄 恙無く(つとめよわがせ、つつがなく)

「ニッポンを取り戻す」派の人々が泣いて歓ぶ歌詞であるが、言外に、その真心に「分け隔て」や邪心が在ること、国の成立ちの古からの強奪の史実、文物歴史の剽窃、さらなる発展は「国を挙げて突き進め」と鼓舞し続けねば維持できないと、ゲロっているのだ。

原曲の地(スコットランド)の人、エリーさんが泣いているぞ!

Should auld acquaintance be forgot,
and never brought to mind ?
Should auld acquaintance be forgot,
and days of auld lang syne?

CHORUS:
For auld lang syne, my dear,
for auld lang syne,
we’ll tak a cup o’ kindness yet,
for auld lang syne.

And surely ye’ll be your pint-stoup !
And surely I’ll be mine !
And we’ll tak a cup o’ kindness yet,
for auld lang syne.
(CHORUS)

We twa hae run about the braes,
and pou’d the gowans fine ;
But we’ve wander’d mony a weary fit,
sin’ auld lang syne.
(CHORUS)

We twa hae paidl’d in the burn,
frae morning sun till dine ;
But seas between us braid hae roar’d
sin’ auld lang syne.
(CHORUS)

And there’s a hand my trusty fiere !
And gies a hand o’ thine !
And we’ll tak a right gude-willie waught,
for auld lang syne.
(CHORUS)

旧友は忘れていくものなのだろうか、
古き昔も心から消え果てるものなのだろうか。

コーラス:
友よ、古き昔のために、
親愛のこの一杯を飲み干そうではないか。

我らは互いに杯を手にし、いままさに、
古き昔のため、親愛のこの一杯を飲まんとしている。
(コーラス)
我ら二人は丘を駈け、可憐な雛菊を折ったものだ。
だが古き昔より時は去り、我らはよろめくばかりの
距離を隔て彷徨っていた。

(コーラス)

我ら二人は日がら瀬に遊んだものだ。
だが古き昔より二人を隔てた荒海は広かった。
(コーラス)

いまここに、我が親友の手がある。
いまここに、我らは手をとる。
いま我らは、良き友情の杯を飲み干すのだ。
古き昔のために。
(コーラス)

天皇家のデッチ上げ

つぶやき: 母卒寿祝誌に載せられた拙文

FB投稿にこう書いた。

「脚切断の母を見舞った時に去来した想いをヘタな歌に詠んだのは、切断の二年ほど後だが、目にした母から何か感謝めいたことを言われたのだが思い出せない。「エヘヘ…」と照れを返しただけで話していない。バカ息子だ。

母の遺品の中に、2010年に行なった「卒寿祝いの会」当日に発行した冊子があった。

孫(ぼくの子)の女房が会場で曾孫たちの手形を採ったり、ポラロイドカメラで即画像を用意したりして、「当日作、当日渡し」に拘り腐心して作った力作だ。その末尾にぼくの駄文を載せてくれている。卒寿記念会で

それを読むうち、その冊子がいつも特養の母自室のベッド横チャブ台に置かれていたのを思い出した。いつだったか、ぼくの一文を読んだ母が何か言ったと思うのだが、その言葉も思い出せない。

 

母が何を言ったか…と、弟などに訊き歩いている。

ブログやFBしている者は、アップすることで相手や社会に「言った」気になっている面がある。冗談ではない、一部以外の目には届いているはずもない。ましてや、脚切断後の母は、時に車椅子でいる時以外、紙媒体資料を視ることなど無かったはずだ。この記憶探し自体に、ぼくの無理解が在りそうだ。                写真下段は、子(と配偶者)・孫(と配偶者)・曾孫、総計三十数名に囲まれた卒寿祝宴席で。

円子の生涯702ba539b4b2c1738ffc03a49f50759e[1]

つぶやき: 母の遺品整理 雑感

先日亡くなった母(享年95歳)の遺品整理で、兄や弟と特養へ向かった。

書棚には、自身と亡夫・4人の息子夫婦・各孫、の名が記されキチンと整理された数十冊のアルバム。60代以降加速した歌作の成果、五冊の歌集。晩年のケアハウス入居から特養入居後の日々の記録。80代半ばで挑み数年がかりで書き上げた自分史。2008年「閉塞性動脈硬化症」で左脚膝下を失ってからは、人に壁に貼ってもらっていた孫たちに次々生まれる曾孫の写真。いくつかの簡素な家具・・・。DSC_4043

淡々と整理するつもりが、たまたまアルバム担当となりひとつひとつ観ることとなり、もういけません。

ふと、手紙の束からぼくの友人から母に宛てた手紙、女房の友人からのものあり、計4通発見した。読んで驚いた。

母の歌集を深く読み、意を尽くした書簡を送ってくれていたのだ。母から聞いたとは思うが詳しく読むのは初めてのような気がする。自身に照らせば、ぼくは友の母親の歌に講評を送る、そんなことが出来ただろうか?とても出来てはいまい。

歌集の中、母が一連の幼児体験を詠んだ歌

「みれん断ち実母に返すが此の稚児の 幸せならんと諦めし乳母」 

 「やすらかな寝息たしかめ帰りしとう 若かりし乳母とわれとの別れ」

 「乳母里より付き人のごと添いて来し 田舎人形夜ごと抱きしよ」

 「いつの間にか姿消したる縞木綿の 人形恋いて泣きし幼日」 

を踏まえて、次の歌を特筆している。

『父の里に預けしわれを疎みたる 母の胸中識る年となる』

友たちはぼく以上に、母の半生をよく理解して書簡を寄越してくれていたのだ。恥じ入るばかりだ。

 

母は云わば「恨」(ハン)を、超えようとして自分史を書き「乳母恋しと泣く、懐かない利発な子」を疎んだ実母の「胸中を識る年と」なり、そして超えただろうか。少なくとも「識」ろうとして足掻いた年月だっただろう。

あゝ、人は誰も永遠の子だ。

*参照:拙ブログ11月7日「母、95年の生涯を閉じる」

 

 

 

つぶやき: 母、95年の生涯を閉じる。

10月24日午後10時過ぎ、満96歳の誕生日まで約一週間を残し母が永眠した。

永眠と呼ぶに相応しい静かな最期だった。

年齢相応のあれこれの疾患はあるがこれといった病は無く、9月末に特養から系列の病院への準危篤状態緊急入院となるまでボケることもなく、まずまず頭脳明晰で時事問題に言及するバアさんだった。

入院後、死までの一か月、時々意識を取り戻し遠方から駆けつけた兄に応答し、翌日「昨日も来てくれたな」と言ったそうだ。今回の入院前でさえ昨日と今日の混在に生きた母に、その時「昨日」と「今日」が明確に区別できていたことが驚きだ。数日後また意識が戻り、呼び掛ける私に「誰や?」と言う。耳元に大きな声で名を告げると、首筋を抱えるように引き寄せて「康か?大きぃなったな」と言った。ワシは「おかん、三男坊はまだ大きぃなれてないねん」と呟いていた。4人の息子に、それぞれ最後の言葉を残したと思う。

円子の生涯

母は、95年から父共々私の家に同居していたのだが、

98年に私は素人経営(労働争議後、5年間職場バリケード占拠の中で設立し、20年間維持した)の会社を破産させてしまう。

母は、夫(私の父)の死去、孫の成長もあり昼間独りの孤独と不自由、息子家族の家屋からの法的立退き・・・などを前にして、翌99年ケア・ハウスへの入居を選択する。

入居直後の母の歌。

『枯れ庭に  白き水仙匂いたち  独りの冬を誇らしげなる』

ハウスでの時間を独りで生きる、その覚悟を水仙に託して詠ったと思えるこの歌は

詩人:清水啓三氏から絶賛された。

本人は「ワテは水仙の凛々しさを詠うたまでやけど・・・」とアッケラカン。

幸い近くに住む私の弟夫妻が寄り添い、兄夫妻・私の女房、各孫たち・・・が、頻繁にハウスを訪れ、

ハウスでの母は、本音か強がりかは微妙だが、「ちょうどええ感じや」と

家族との程よい距離を楽しむように、元気に振る舞い、歌会を立ち上げ、そして暮らした。

ケア・ハウスでは、念願の「自分史」を執筆し、書くほどに想いが嵩じ制止したいと思わせる局面もあったが、06年ほぼ意のままに書き切った。個人史でありながら、贔屓目に見れば、期せずして背景に「昭和」という時代とその中を生きた「おんな」・戦争という民の受難など を浮かび上がらせてもいる。船場道修町商家の家父長制・空襲・焼跡・闇市・雑炊食堂・嫁家と姑他との確執etc ・・・・。

 

 

体力の衰えと、いくつかの病もあり、先年ケア・ハウスと同系列の「特養」に入居する。

2008年夏、母は「閉塞性動脈硬化症」の発見が大幅に(一昼夜)遅れたことから、左脚膝部より先が壊死状態となり、切断に至った。

以来、片脚を失った失意と不自由を克服して、命の最後の7年を「生き」抜いた。

 

乳児期を乳母の許で育った母は、ゆえあって、三歳で実家に戻る。

生母になつかず、実家に馴染まず、

いっしょにやって来て大切にしていた人形を抱いて、乳母恋しと毎日泣いたといふ。

その人形が、ある日を境に突然姿を消す。

その日の記憶は鮮明で、母の歌集に

「みれん断ち実母に返すが此の稚児の 幸せならんと諦めし乳母」 

 「やすらかな寝息たしかめ帰りしとう 若かりし乳母とわれとの別れ」

 「乳母里より付き人のごと添いて来し 田舎人形夜ごと抱きしよ」

 「いつの間にか姿消したる縞木綿の 人形恋いて泣きし幼日」  とある。

誰が何を想って棄てたのか?と問うている。

三歳児の記憶としては、あまりにも重く酷な記憶だ。この事態は、後追いでどのように取り繕われようと、再現不可能な「喪失」なのだ。

以来、実母とは互いにとって「不幸な母子関係」が永く続くこととなって行く。

ぼくは、角田光代:著『八日目の蝉』を読んだ際、会ったことのないこの乳母とその母性を強く思い浮かべた。

 

 

【08年夏。足切断の母を見舞ひて九首. 品川宿康麿】

 

病床に身を起こし居り膝撫でて

 「これ可愛いねん」と 母のつぶやく

 

包帯に丸く小さくくるまれし

  膝切断部 「ぬいぐるみ」のごと

 

膝先を可愛いと言ふ母 遠き日の

 恋人形探す 三歳の童女

 

切断部抱く母の背に戦禍見る

 子のなきがらに すがる母親

 

無いはずの足先疼くと母訴う

 「わて諦めても脳憶えとる」

 

無き足が疼くは人の想いに似たり

 断ち切り渡る 我が師の海峡 

   

母子違和の連鎖絶たむと育みし

 四人の男児(おのこ)初老となれり

 

ミスや過誤言い募らざる老の意に

 我が半生の 驕慢を知る 

 

生家にも嫁家にもつひに容れられぬ

 若き日知る足 独り先立つ

 

 

父同様、何も残さなかった母だが、今ぼくの手許には、母の自分史と四冊の歌集が在る。

幼い日の喪失感、母子違和、唯一と言えるささやかな矜持「大手前高女卒」、男児四人を抱え挑戦した幼稚園教員への道(果たせず薬局免許取得)、夫の能天気処世や某宗教への入れあげ、夫の商い失敗と貧困、言葉に結実しはしなかった反戦、孫たちとの時間、息子家族との同居、息子の破産、ケアハウス入居、歌集刊行、自分史上梓、特養入居・・・95年の生涯を、母はランプの灯が油切れで消えゆくように静かに終えた。

近い者に「よ~く解かるよ」と言ってもらいさえすれば、そうしてそう振る舞われれば免れ得たはずの幼い負の記憶を、95年をかけて超えただろうか? 持ち前の激しい性格がそれを邪魔しただろうか…、逆にその性格によって克服を構想できたのだと想ってやりたい。

我も又、夫であり親である身であってみれば、「よ~く解かるよ」こそが親や夫や近親者の務めだと改めて想う。

駄エッセイ: われ と われら の往還

【われらが われに 還りゆくとき】 から 【「われ」を基点にした「われら」の再生】
~われ と われら の往還~

      10.18 変えよう! 日本と世界
   第9回 反戦・反貧困・反差別共同行動 i
n 京都

京都:円山野音は800名の結集。
ワシは関大校友連絡会ジジババ隊列に参加(参加者:15名)。集会後、四条通り・河原町通りを二条:京都市役所まで高齢者隊列は無事付いて行った。
原発推進・辺野古・安保法制・立憲否定・産軍態勢・「学」の破壊・・・、すべてが連動して迫って来る安倍政治の根本的本質、それへの「ぐるみ」陣形の必要性が語られたが、どないやねん民主党?安倍軍国政権を打倒するという一点で共同戦線を張れないものか? 参加者の想いは同じだ。
集会中、歌った趙博の「国民、舐めるな。非国民を、舐めるな」とのタイトルに込めた想いが痛く届く・・・。「非国民を」と特記したパギの想いを共有したい。

打ち上げの集いで、意外な人に出会った。1967年、羽田で虐殺された山崎氏の追悼と、戦争国家への道を驀進する安倍政治を阻止しようと立ち上げられた、50周年事業「108山﨑博昭プロジェクト」の面々だ。弁護士・元国会議員らに混じって、ある女性歌人が同プロジェクトの呼びかけ人として参加されていた。(ワシも同プロジェクトの賛同人の一人なのだ)
ワシは、その女性歌人の歌集:『無援の抒情』の、「われらがわれに還りゆくとき」との章タイトルに、「われわれはァ」と語り続けた同世代者の一人として、「われ」として立つことの意味と、その欠落の上に棲む「われら」のいかがわしさ・稚拙・傲慢・無恥・自己空白を、痛考したことがある。

「今だれしも俯(うつむ)くひとりひとりなれ われらがわれに変わりゆく秋」
「われ」が欠落した、自己免責装置にしてイデオロギー過剰な「われら」、それとの訣別宣言だと聞こえた。
章名に込められたあの「時代」への悔悟の念を、早くに語っていたその女性歌人を、当時自身と比較し見事だと思った。

1969年東大安田講堂攻防戦(を初めとする各大学闘争)を歌ったその歌人の歌に、浴びせられた文学的政治的両面からの批判・非難・拒否を、当時(1980年前後)から聞き及んでもいた。
曰く、「決戦主義だ」「決意主義だ」「決裁主義だ」「敗北主義だ」「情緒主義だ」etc・・・。
「明日あると信じて来たる屋上に 旗となるまで立ち尽くすべし」
批判や非難は誤読だと思った。
「旗となるまで」闘い抜けと言っているのか? あるいは、その惨めな敗北を自虐や自嘲で述べているのか? そうではあるまい!
繰り返し読むと、
この先に於いて、その闘いの明暗・稚拙を含めて見届ける覚悟のようなものが匂う。
過不足なく「そのまま」の闘いと自身の明暗・稚拙・無恥を永い時間の中で見届け、風雨に晒されボロボロの旗となった自身を見届けるという想いだ。それは、短い時間の中の闘いの現象を超えて持続する「志」のことを言っている。
金時鐘さんの「負け続けることをやめる時、それが本当の敗北だ」という言葉に想い至る。「明日あると・・・」はこの言葉に通底する永い時の、「立ち尽くし」ても抱える心を詠ったのだ。現に歌人は山崎氏「10.8プロジェクト」の呼びかけ人だ。

その歌人にワシの読みを言いかけてきちんと言えず、ミーハーファンよろしく、ツーショットを撮らせていただいた。12112217_835397216572408_1943130734675989598_n1-e1445269645230[1]

さて、ワシの「われ」が、甚だ心許ないこと承知の上で、仮「われ」を基礎に、2015年今こそ、
「【われらが われに 還りゆくとき】 から 【「われ」を基点にした「われら」の再生】 へ」と強く思う。
「われら」が求められる事態が、世を覆っている。
(文中の女性歌人とは、道浦母都子さん)
*写真:円山野音会場、ジジババデモ、二次会近く木屋町高瀬川、道浦さん。

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