たそがれ映画談義: 『踊る大捜査線』-  ♪ 踊る作者に 観る観客 ♪

『踊る大捜査線』に視る奴隷根性と権力性、それは今風日本映画の立位置を映し出す。

10年近く前、TV局が、TVスタッフの手で、TVシステムによって作り上げ、事前大宣伝を経て空前絶後の大ヒットとなった映画『踊る大捜査線』を見たとき、言いようのない辟易感に襲われた。                                                   主人公と彼を取り巻く人物たちの「無自戒」、映画の製作者・監督の「勘違い」、観客たちの反応に見える「軽薄」・・・。とりわけ織田祐二演ずる主人公青島が、柳葉敏郎演ずる同世代キャリア上司:室井に言う下記の科白には反吐が出る思いだった。                                                         記憶は曖昧だが、その趣旨は概ね以下のようなことだった。                                                                          「ぼくら下の者は、上がシッカリしてくれていて努力できるのだ」「だから、上は上でそれを汲み取って出世してもらわないと」                                                                                            一部でキャリア・ノンキャリアの垣根を越えた「解り合い」だとか、働く者の気持ちを「言い当てている」と言われたりしたが、果たしてそうなのか?                                                                  ノンキャリア組の心情がそうした諦念(荒廃?)の中に在るという、今日的職場風土を示す皮肉だと言うのなら頷けもする。 だが・・・、青島君は、明るく元気で、自己と職場を全面肯定しつつ嬉々として立つのだ。                                                                                                                                                                                                                                            

話は飛ぶが、同じ現場刑事でも、内田吐夢監督の秀作飢餓海峡(64年、東映)の伴淳三郎演ずる弓坂刑事には、意地と執念のブツであり刑事人生を凝縮したような仏ヶ浦の「灰」を、幾年にも亘って握り締めている、地を這う捜査員のノンキャリア魂があった。そこには「上は上で云々」などという「代行性」を断じて拒否する、捜査員・ノンキャリア勤労者の「努力や誠実」が在ったぞ。                                                              それは、懸案を上司やキャリア組への委任や委託で終着点とする棚上げではなく、懸案をいわば我がこととして永遠に「抱え込む」気概・矜持に基づいていたのだ。                                                                                                          「下の者」のこの気概の解体・喪失・放棄・忘却こそが、実は「上の者」の支配性より強固な要素として、「権力性」の核心を打ち固めているのだ。国家規模の強権支配は、一握りの支配層の圧政を前提としつつ、民のそうした気概の解体と諦念の上にこそ貫徹されて来た。                                                                                                                                      『踊る』のファンには不愉快だろうが、そのことに無自覚な度合いこそが、『踊る』的映画をヒットさせてしまう社会の、ある度合い=荒廃度合いだと言えなくはない。

 さて、『踊る』自体だ。(黒澤『天国と地獄』のピンクの煙のパクリは、たとえパロでも、論評する気にさえならん!)                                                                                   先日、「日本映画専門チャンネル」で『「踊る大捜査線」は日本映画の何を変えたか』なるリレー・トークを観た。10人の「映画通」が語っている。                                                                                                                        多くは、肯定・映画の敗北・当然の帰結・観客が選んだ結果だ・これも映画だ・・・・、との「現実追認」に終始している。                                                                                                   その中で、雑誌『映画芸術』編集長:荒井晴彦だけが「まとも」なことを言っていた。                                                                              気になって、各発言の採録である番組と同タイトルの新書(幻冬舎新書、¥800)を購入した。                                                                                                      以下に荒井発言を抜粋する。

『結局はフジテレビのプロモーションの力でしょう』 『テレビが勝ったのではなく、映画がダメになったのです』 『映画自体が乗っ取られた』 『映画館の大きなスクリーンでテレビドラマを映しているのと同じです』                                                                『僕らの年代は』 『なぜこんなものを映画館でやっているんだというような違和感を抱く』 『若い人たちはその違いを知らないから、何のわだかまりも無い』                                                                                         『「踊る」以降は「映画の監督がつまらん作家性なんか出すより、テレビのスタッフが映画もやったほうがかえって当たる」というわけです』 『「踊る」の亀山プロデューサーは』 『「なぜ彼や彼女は犯罪を起こすに至ったのかを描かなくていい」と言ったそうです』 『「犯人のバックグラウンドを描くな」ということです』                                                                                     『「踊る」以降の作品に描かれる犯罪は、「たまたま、ただのヘンな人が暴発したからおこったこと」になってしまった』 『犯人が捕まったらそれで終り、それで解決でいいということです』                                                                                                               『よくテレビでは「小学生でもわかるような表現じゃないとダメだなんだ」という言い方をします。でも僕は万人にわからせることだけがすべてではないだろうと思う』 『100人のうち10人がわかればいいという映画があっていいと思う』 『わかるのは二人ぐらいでいいんじゃないかと思うし、さらに言えば、たった一人でもいい。究極的には、作った俺さえいいと思えればいいんだ、とも思います』                                                                                            『見やすさだけ、わかりやすさだけが最優先されるのは、本当にいいことなんでしょうか』                                                                    『もちろん徹頭徹尾そういう作り方ではまずいけれど』 『すべての映画を、黙って座ってボーッと見ていてもわかるものにするのはどうなのか』                                                                                                   『今は』『観客の側が勉強して映画を理解する文化がなくなってきている』 『こうなったのは、作り手のほうが、「勉強しなくいいんだよ、考えなくても楽しませてあげるよ」と言ってしまったからです』   『監督や原作の作家が、何を描こうとしていたのかを知ろうとして、その作家の生い立ちなどを別の本で調べたりするうちに、どんどん映画に深くはまっていくこともあった』                                                                                                                                    『作品に匿名性のようなものが生れて、似通った作品ばかり』 『作品に個性がないから、顔がみえない』                                                                                        『そもそも映画は「娯楽」と「芸術」という、相反する要素を持ち合わせたもので』 『作り手は、芸術であるとまでは言わないけれど、全くの売り物だとも思っていなかった。「商品」「作品」の間で行ったり来たりして、悩んでいました』 『今の若い作り手たちは違います。彼らは自分のやりたいことを通すというよりは、お客さんを入れることを第一に考えるようになった』                                                                                                                                       『僕は昔からお客様は神様だと思ったことは一度もない』 『神様はバカ様になった』                                                                               『映画館の闇の中で、僕たちは人生を変えるような、魂を震わせるような何かと出会うことが出来た』                                                                          『今の映画は、ヒットすることと引き換えに、そういった陰影や多様性を切り捨ててしまった』                                                    『亀山プロデューサーは』 『勝つにはどうしたらいいかを考えて、その結果勝ったのはすごいことです』                                                                                                         『平野謙という文芸評論家が「畢竟、文学とは我を忘れさすか、身につまされるか、ではないか」と言っているのですが、映画もそうじゃないかと思います』                                                                                                           『我を忘れさせる映画の典型が「踊る」でしょう』 『映画館を出たら、ああ面白かったとその映画も忘れてしまうのではないか』 『僕は、身につまされる映画を作りたい』 『人に忘れられない映画を作りたい』                                                                                                      『文学や映画をエンターテインメントこそすべてとその枠に押し込めることで、そこにある生き方・考え方・価値観を揺り動かす力を捨ててしまうのはあまりにも惜しい』**********************************************************************************************************************************************

荒井の、いまどきの映画と観客への言い分は、そのまま映画『踊る』への、『踊る』登場人物への異論となっている。それは、現実への視点を欠き(欠かざるを得ない)、現実「回避・逃亡」に終始する、CG満載の近未来絵空事や有り得ないパニックにしかドラマを構成できない米映画作家の今日的立ち位置、その亜流たる日本映画への異論であり、同時に米帝国とグローバリズムへの鋭い文明批評として聞こえて来る。

荒井晴彦:1947年生まれ。1970年、早稲田大学文学部除籍。(なるほど・・・あの時代の、あの毒を浴びた同輩か・・・)                                                                      若松プロ助監督を経て、脚本・監督業。現:『映画芸術』編集長。                                                                                                                                                                                                                           脚本:                                                                                                  『神様のくれた赤ん坊』(78年)、『遠雷』(81年)、『時代屋の女房』(83年)、                                                                                                          『探偵物語』(83年)、『噛む女』(88年)、『眠らない街 新宿鮫』(93年)、                                                                                                         『絆-きずな』(98年)、『KT』(02年)、『やわらかい生活』(06年)                                                                                                                                  監督:                                                                                                              『身も心も』(97年、脚本とも)http://movie.goo.ne.jp/movies/p30683/comment.html

 ☆                                                                                                                                                       『やわらかい生活』はええです。大東京に生きるシングル女性(確か、上場企業の元総合職だった)。                                                         友の死をきっかけに陥った「うつ」、ドロップアウト、孤独・・・、それらを受け容れる「やわらかい生活」を                                            求め彷徨いながら、自己再生を「やわらかに」展望する主人公・・・。                                                                                                                                            寺島しのぶの存在感に救われた作品だった。                                                   蒲田というごった煮の土地柄もあってひときわ心に沁みました。→ http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tymv/id324265/                                                         出演:寺島しのぶ、豊川悦司、妻夫木聡、大森南朋

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