ほろ酔い交遊録: 昨年秋に続いて山本義隆講演会を拝聴

10月21日(金)
京都精華大:山本義隆氏講演会(18:30~20:30)に参加した。
明窓館 M-201大教室は満席の聴衆(500強)、山本氏の熱い講演に老若が聴き入った。精華大の学生もそこそこ。
山本義隆:科学史家。1941年生まれ。74歳。
山本義隆という学究の徒を議長とした東大全共闘の選択を慧眼と言おうか。その偶然+必然+明治初年から100年目=1968年という歴史的要請・・・によると思える絶妙の事績は、どこまでも「学」の立つべき処を求めての、まさに「反軍産官学」であり、「反知性」への異論なのであった。明治150年を前に噛み締めたい。

【ワシの聴講メモより】
欧米の18世紀末~19世紀初頭以降の科学技術(1800ボルトの電池、1831電磁モールス、ワット蒸気機関・エジソン電球、他)にそれほど遅れず明治維新。時あたかもエネルギー革命の時期。逆にその為の明治維新。
人力・畜力・水力から蒸気と電気へ。欧米から「人権思想」「近代民主主義」を除き、科学技術だけを100%受容れた。
アヘン戦争・薩英戦争・下関戦争などへのショック。科学技術と経済発展ワンセット=殖産興業・富国強兵は官主導により産軍学一体で推進された(されざるを得なかった?)。国策大学。
士族の師弟を技術官僚・経済官僚として育成。気分は、藩に仕官している武士。
富岡製糸工場、足尾銅山(電化第一号)。日本の近代は農村からの人的・物的収奪と、農村の破壊が柱。
日清・日露・第一次世界大戦。科学を戦争に使うの本格化。ドイツの持ち堪えから、総力戦思考。生産力=潜在的軍事力。一層の理科系偏重1918科学研究所。
科学者に問うと「一番研究の自由があったのは戦争中」だと答える。軍事に繋がる(あるいはそう思える)研究にはジャンジャン金を出した。【昨今の安倍政権】4度目の理系偏重文系縮減・・・明治初期・昭和戦争準備期・高度経済成長期・現在「戦争する国へ」期
戦後、藩仕官精神の技術者、戦争中の技術者がそのまま横すベり的に移動して高度経済成長期へと進むのだが、その前提は
朝鮮戦争(砲弾・ナパーム弾・兵器・車両・衣料から全必需品)とベトナム戦争という、具体的なリアルな、日常には感じることなく済む「戦争」によって支えられた。その後も例えば新幹線は軍の技術だ。
1956もはや戦後ではない、1957東海村原子炉、岸は「核の平和利用」を宣言、「生産力は潜在的軍事力」からさらに進み核兵器保持への潜在力が「大国」の条件だとした。
ある識者曰く「経済成長を妨げる3要素は、賃金が上がること・労働者の発言力が増すこと・公害規制が進むこと」
技術革新が成長を生むという神話の条件は無くなりつつある。それでも成長への「糊しろ」や「外部」が必要な成長神話は、第三世界を喰いつくし、国内に外部を作り出す。貧困問題の根本だ。限界が近付いている。
明治から約100年目に「国策大学の頂点」たる東大闘争があった。その少し前の明治・早稲田・明治・中央などの学費値上反対闘争は、理系増員にシフトして金が要ることを反映した大学の姿であり、学生は次世代の者のために闘ったと言える。東大:1959電子工学、1960原子力工学。理系定数増。
今、149年目だ。科学技術信仰・技術革新による成長という、「戦争」を含む組み立ては破綻を迎えつつある。「戦争」はインフラや施設社会的財産の破壊と、製品と蓄積財の浪費だ。それは「外部」収奪先を失いつつある資本の「将来世代からの収奪」の姿だ。
18世紀まで自然の一部であった人間。エネルギー革命以降の科学技術と成長への過信は、人間を自然の外に置いた。外から自然に対して命令する存在となった。その最後が「核分裂反応の統御」だ。そしてその無理を知った。
ゼロ成長・ゼロ失業。ポスト資本主義や何処に・・・。10-21%e8%ac%9b%e6%bc%94

講演後の質問。 ノーベル賞受賞大村さんの「基礎研究をおろそかにしないでとの苦言」をどう思うか、への山本さんの答えは解かり難かったが、一流の照れだと思った。発言の一部が華々しく切り取られて、シンボルにされることへの違和感だろうか? また研究者たちの構えからして「こうこうこうします」とは言えない実状の吐露でもあろう。けれど、山本さん「照れてるバヤイじゃないですやん」『研究をストライキするでというのも変ですし』・・・う~ん。

下画像は出町柳での懇親呑み会。山本義隆・山崎氏兄上・水戸喜世子・道浦母都子・池田知隆・趙博・石田涼(精華大の若い専務理事)・荒木田岳・松尾順介 各氏他20数名の参加でした。

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